この前フォトリーディングの講座を受けて、あらためて意識と潜在意識について考えさせられた。
自分では意識していないのに、潜在意識に情報を直接インプットできるなら、なんで意識というものがあるんだろう。意識って何なんだ?
『錯覚する脳』によると、意識というのは単なる錯覚に過ぎない。筆者は「受動意識仮説」という説を唱えている。潜在意識(無意識)がぼくたちが何をやるかを全部決めていて、意識というのはあとでそれを自分が決めたと勝手に勘違いしているだけの存在だという。
前野隆司『錯覚する脳』
脳科学者池谷祐二の『進化しすぎた脳』にも同じようなことが書いてあった。ある実験で、被験者に「好きなときにボタンを押してください」と伝えて脳をモニタリングしたところ、先に「運動前野」という運動をプログラムするところが動き始めて、それから1秒ほども経ってから「動かそう」という意識が現れたらしい。ボタンを押したのはあくまで無意識で、意識は後でそれを見ていただけということになる。
この話をそのまま真に受けると、人間には何の選択の余地もないとうことになる。ぼくらの行動に意識が関与しないとうことであれば、意識は、無意識によって行われたことを後で映画を見るようにスクリーン上で見るだけの働きということになる。
でも例えばこういう場合はどうなんだろう。だれかに言葉で「そこのボールペンとって」と言われたとする。この場合、言葉を理解するのは、無意識ではなく意識のほうだ。相手の依頼を頭で理解して初めて、相手にボールペンを渡すというアクションにつながる。意識が無意識のほうに「ペンをとる」という情報を渡したから、無意識のほうはペンを渡すというアクションを取れる。まさか、相手に依頼される前から、無意識のほうはボールペンをとろうとしている、なんてことはないだろう。
だから一応、意識が情報をキャッチして、その情報を元に無意識のほうが行動を起こすということはあるはずだ。アクションはたしかに無意識→意識という順番で行われるとしても、アクションの起点である無意識にたいして、意識が影響を及ぼせるということだ。
だから、意識が単なる錯覚なんだというのではなく、意識から無意識にどう情報を渡すかという点で、意識じゃなく無意識が主体なんだ、ということを意識するとのいいのかな、と思う。
たとえばスノーボードで、いろいろと言葉で考えて「こうしよう、こうしよう」と意識でコントロールしようするとうまくいかない。逆に意識でコントロールしようとせず、自分の感覚(例えば足裏の感覚とか)に集中するとうまくいったりする。
そう考えると、意識というものの主たる役割は、「フィードバック」機能なんじゃないだろうか。たしかに意識は、無意識に対して指示を出すこともできることはできるが、それがあまり得意じゃない。だからスノーボードでも、頭でいろいろ考えすぎるとぎこちない滑りになる。逆に、意識が自分の本来の機能であるフィードバックに徹すると、うまくいったりする。
会社に例えて、意識が上司で、無意識が部下だと考えれば分かりやすい。指示は上司が出すが、実際に手を動かすのは部下だ。問題は意識から無意識への指示の出し方だ。上司(意識)が仕事の具体的なやり方までいちいち細かく指定したりすると、部下(無意識)はポテンシャルを発揮できない。逆に、何のためにやるのかとか背景情報とかアウトプットのイメージとかを伝え、実際のやり方は任せてしまうほうが、部下(無意識)はいい仕事ができる。コーチングというのも、要は、上司は部下への指示機能ではなくフィードバック機能をはたそうよという話だろう。
フィードバックが重要だとは思っていたけど、それを人に頼らず、自分で自分にやってあげられれば、それに越したことはない。だから、そのために意識があるのかな、とこの本を読んで思った。
関連エントリ:
フィードバック
無意識を作りこむ
自分では意識していないのに、潜在意識に情報を直接インプットできるなら、なんで意識というものがあるんだろう。意識って何なんだ?
『錯覚する脳』によると、意識というのは単なる錯覚に過ぎない。筆者は「受動意識仮説」という説を唱えている。潜在意識(無意識)がぼくたちが何をやるかを全部決めていて、意識というのはあとでそれを自分が決めたと勝手に勘違いしているだけの存在だという。
前野隆司『錯覚する脳』
「受動意識仮説とは、『「意識」とは「無意識」下の自律分散的・並列的・ボトムアップ的・無目的的情報処理結果を受け取り、それをあたかも自分が行ったことであるかのように幻想し、単一の自己の直列的経験として体験した後にエピソード記憶するための受動的・追従的なシステムである』というものだ。
つまり、機能的な「意識」は、「無意識」下の処理を能動的にバインディングし統合するためのシステムなのではなく、既に「無意識」下で統合された結果を体験しエピソード記憶に流し込むための追従的なシステムに過ぎないと考えるのだ。」(p.46)
脳科学者池谷祐二の『進化しすぎた脳』にも同じようなことが書いてあった。ある実験で、被験者に「好きなときにボタンを押してください」と伝えて脳をモニタリングしたところ、先に「運動前野」という運動をプログラムするところが動き始めて、それから1秒ほども経ってから「動かそう」という意識が現れたらしい。ボタンを押したのはあくまで無意識で、意識は後でそれを見ていただけということになる。
この話をそのまま真に受けると、人間には何の選択の余地もないとうことになる。ぼくらの行動に意識が関与しないとうことであれば、意識は、無意識によって行われたことを後で映画を見るようにスクリーン上で見るだけの働きということになる。
でも例えばこういう場合はどうなんだろう。だれかに言葉で「そこのボールペンとって」と言われたとする。この場合、言葉を理解するのは、無意識ではなく意識のほうだ。相手の依頼を頭で理解して初めて、相手にボールペンを渡すというアクションにつながる。意識が無意識のほうに「ペンをとる」という情報を渡したから、無意識のほうはペンを渡すというアクションを取れる。まさか、相手に依頼される前から、無意識のほうはボールペンをとろうとしている、なんてことはないだろう。
だから一応、意識が情報をキャッチして、その情報を元に無意識のほうが行動を起こすということはあるはずだ。アクションはたしかに無意識→意識という順番で行われるとしても、アクションの起点である無意識にたいして、意識が影響を及ぼせるということだ。
だから、意識が単なる錯覚なんだというのではなく、意識から無意識にどう情報を渡すかという点で、意識じゃなく無意識が主体なんだ、ということを意識するとのいいのかな、と思う。
たとえばスノーボードで、いろいろと言葉で考えて「こうしよう、こうしよう」と意識でコントロールしようするとうまくいかない。逆に意識でコントロールしようとせず、自分の感覚(例えば足裏の感覚とか)に集中するとうまくいったりする。
そう考えると、意識というものの主たる役割は、「フィードバック」機能なんじゃないだろうか。たしかに意識は、無意識に対して指示を出すこともできることはできるが、それがあまり得意じゃない。だからスノーボードでも、頭でいろいろ考えすぎるとぎこちない滑りになる。逆に、意識が自分の本来の機能であるフィードバックに徹すると、うまくいったりする。
会社に例えて、意識が上司で、無意識が部下だと考えれば分かりやすい。指示は上司が出すが、実際に手を動かすのは部下だ。問題は意識から無意識への指示の出し方だ。上司(意識)が仕事の具体的なやり方までいちいち細かく指定したりすると、部下(無意識)はポテンシャルを発揮できない。逆に、何のためにやるのかとか背景情報とかアウトプットのイメージとかを伝え、実際のやり方は任せてしまうほうが、部下(無意識)はいい仕事ができる。コーチングというのも、要は、上司は部下への指示機能ではなくフィードバック機能をはたそうよという話だろう。
フィードバックが重要だとは思っていたけど、それを人に頼らず、自分で自分にやってあげられれば、それに越したことはない。だから、そのために意識があるのかな、とこの本を読んで思った。
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フィードバック
無意識を作りこむ
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by taroshin_1
| 2007-08-29 01:50